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嘆き

これは、仏陀のいとこで弟子でもある阿難(あなん)のイメージです。
彼はたえず仏陀のそぱにいて、22年ものあいだ仏陀のあらゆる身の回りの世話をしていました。
仏陀が死んだとき、阿難は依然として彼のそぱにいて、泣いていたと伝えられています。
ほかの弟子たちは彼が誤解していることを責めました。
仏陀は完全に満たされて死んだのだ、おまえは悦んでこそ当然なのだ、と。
それでも、阿難はこう言つたのです。
「きみたちこそ誤解している。
私は彼のために泣いているのではない、自分のためなのだ。
私は何年ものあいだずっと彼のそぱにいたのに、いまだに成就していないからだ」。
阿難はその夜ー晩中起きていて、深く瞑想し、痛みを感じ、嘆き悲しんでいました。
朝になって、彼は光明を得たと言われています。
どうしようもなく嘆き悲しんでいる時は、その奥に、大きな変容の時となりうる可能性が潜在しています。
しかし、変容が起こるためには、私たちは深く、痛みの根そのものにまで入っていき、非難することも自分を憐れむこともせずに、そのあるがままの痛みを体験しなければなりません。
~☆~
この痛みは、あなたを悲しませるためにあるのではない。
それを覚えておくがいい。
人びとが見逃しつづけているのはそこだ……。
この痛みは、ただあなたをもっと油断なくさせるためにあるというのも、人びとは矢が自分の胸に深く刺さって、傷つかないかぎり、油断しないようにはならないからだ。
そうならないかぎり、彼らは油断しないようにはならない。
生きることが簡単で、心地よく、都合がよければ誰が気にするかね?
油断しないようになろうなどと誰が悩むかね?友人が死ぬと、その可能性はある。
あなたの恋人があなたをおいて行ってしまうと闇の深いその夜、あなたは淋しく感じる。
あなたはその女性をとても愛していたし、すべてを賭けていた。
ところが、ある日突然、彼女は去ってしまう。
淋しさに泣きながら、もしあなたがそれらを使えばそういう時こそ、気づくようになることのできる機会だ。
矢は痛む一一。
それを使うことはできるのだ。
この痛みは、あなたを惨めにさせるためにあるのではない。
痛みは、あなたをもっと気づかせるためにある!
そして、あなたが気づくと、惨めさは消える。
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