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嘆き

これは、仏陀のいとこで弟子でもある阿難(あなん)のイメージです。彼はたえず仏陀のそばにいて、22年ものあいだ仏陀のあらゆる身の回りの世話をしていました。仏陀が死んだとき、阿難は依然として彼のそばにいて、泣いていたと伝えられています。ほかの弟子たちは彼が誤解していることを責めました仏陀は完全に満たされて死んだのだ、おまえは悦んでこそ当然なのだ、と。それでも、阿難はこう言つたのです。「きみたちこそ誤解している。私は彼のために泣いているのではない、自分のためなのだ。私は何年ものあいだずっと彼のそぱにいたのに、いまだに成就していないからだ」。阿難はその夜ー晩中起きていて、深く瞑想し、痛みを感じ、嘆き悲しんでいました。朝になって、彼は光明を得たと言われています。どうしようもなく嘆き悲しんでいる時は、その奥に、大きな変容の時となりうる可能性が潜在しています。しかし、変容が起こるた
めには、私たちは深く、痛みの根そのものにまで入っていき、非難することも自分を憐れむこともせずに、そのあるがままの痛みを体験しなければなりません。
この痛みは、あなたを悲しませるためにあるのではない。
それを覚えておくがいい。人びとが見逃しつづけているのはそこだ……。この痛みは、ただあなたをもっと油断なくさせるためにあるというのも、人びとは矢が自分の胸に深く刺さって、傷つかないかぎり、油断しないようにはならないからだ。そうならないかぎり、彼らは油断しないようにはならない。生きることが簡単で、心地よく、都合がよければ誰が気にするかね?油断しないようになろうなどと誰が悩むかね?友人が死ぬと、その可能性はある。あなたの恋人があなたをおいて行ってしまうと闇の深いその
夜、あなたは淋しく感じる。あなたはその女性をとても愛していたし、すべてを賭けていた。ところが、ある日突然、彼女は去ってしまう。淋しさに泣きながら、もしあなたがそれらを使えばそういう時こそ、気づくようになることのできる機会だ。矢は痛む一一。それを使う
ことはできるのだ。
この痛みは、あなたを惨めにさせるためにあるのではない。痛みは、あなたをもっと気づかせるためにある!そして、あなたが気づくと、惨めさは消える。
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